精神と健康、制作と歴史

思春期や、その後の不安定な時期に於いて存在それ自体を肯定される事は、後の生活に大きな影響を与える。
存在を認められない場合、それには両親や教師、世間、常識からの様々な柵があるが、それをなんとか振り払いつつも、振りきれない場合、自由な思想 をもぎ取られ、心身ともに成人するまで苦悩の道を辿る。ただ、苦悩も適度に必要であり、制作のためには大いに悩み苦しむ事が必然となる。
逆に言えば、作品を制作する場合に苦悩しないことはあり得ず、制作自体が例え出来たとしてもそれをやり直すかやり直さないかでまた苦悩しなければならない。
美術の自由をとにかく自分の分だけぶんどるためには、命をすり減らしているかと思う程に神経を消耗する。
しばしば苦悩の限度、制作の限度を超す事があるが、更に限度の限度を超していくと精神にも危険が及ぶ。実際、及ぶだけで済めばいいが、生活に支障 を来たし、生活に支障があれば眼に見えるように家屋が壊れていく。本当に家屋は壊れていくのだ。家屋が保たれている家族は精神や肉体が健康であると言って もいい。
家屋は重要だ。

生活、健康、精神、会話、こういった日常の全てはバランスが保たれてこそであり、ひとたびどこかが崩壊すれば異常な精神でもって制作に臨む事にな る。その場合にしばしば「良い」「つきぬけた」作品が出来ていると解釈されがちである。またそういった狂気の歴史が人類にはあって、変な、おかしな、気の 違ったものが時間を超えて残っているという事は勿論否定しない。しかし、これが長年、何世紀にも渡って狂気と天才の紙一重を称賛されてはいるのだが、新し い時代というものはいつでも絶望と希望に満ちているわけであり、自身が真っ当に健康で、真面目で、適度にふざけており、それでいてつきぬけた作品を制作す るという、そんな「普通」と言われそうで健康的に狂気に満ちた人間を目指す価値、というよりもそういう目的を持つ価値は十分にある。
むしろ、これまでの誰よりも健康で欠点の多い、普通の真人間になるというのは狂人に於いては難しいことだが、それを目指すことが本当に生命の輝く、爆発する、力に満ちた生き方なのではないかと思うのである。

ここで重要なのは力と健康であり、不真面目であれば当然健康は近づかない。生活は全て人間の精神と繋がっている。また、制作を続けていくに際し、 ある程度の健康は保っておかなければ突然、終了を余儀なくされるということも当然ある。これは法に対しても言える事であるが、いささか法の方が自身よりも 信用されるものではなく、人間の本来の強さや力を舐めたものであると言わざるを得ない。
町や村、都市の崩壊も例えばこの国においては対象、つまり人民を舐め腐り、また舐められ腐って制定されていった事で、美しかった景観の崩壊や精神の崩壊を招いているような気もする。これは一家庭の家屋の崩壊と構図は同じだ。
過保護は対象を壊し、成長を縮め、早死にさせる。
自然に生きていく中で、最も簡単に死を招くのは不健康である。
人間は簡単に死ぬが、そう簡単には死なない。
死を身近に感じないうちには死への渇望を感じるが、死を身近に感じすぎていると「私は生きなければ」と思うものだ。
かつて村上春樹が「死は生の対極ではなく、一部だ」と言ったものだが、別の言い方をすれば「死の歴史の中に生が残っている」と言ってもいい。
人類の歴史は狂気と健康と死の繰り返しだ。
存在の肯定には死が不可欠であり、死への道は愛と憎しみで繋がっている。
対人のみの話ではなく、それは対物でもある。

存在と死、健康と力が重要な主題となってきた(自分にとって)
↑もはや言ってることがよく分からない。